しばログ ~フランク・ロイド・ライトへの旅~

設計の芝本です

先日、フランク・ロイド・ライトの自由学園明日館に行ってまいりました。

皆さん、ご存じですか?

フランク・ロイド・ライト

知らない方も、きっと知ったら好きになる建築家。

巨匠と世界中に知られ語るに恐れ多いライトですが、私は愛おしいと感じる建築家です。なんでかって、破天荒で人間味ある人だからです。会ったことはありませんが会ってみたかった人。きっと建築に関わる多くの人が思ってるかもしれません。

建築を学んでいない方や、仕事で関わってない方は、有名な建築物や建築家って、難しくてなんだか近づきがたい気がすると思いますが、実はその人となりを知るとぐっと身近に感じ、その人の設計した建物に入るとまるで、その人の考えの中に入り込んだような気分になるのです。

 

では、今回訪れた自由学園明日館の設計者 フランク・ロイド・ライトとはどういう人だったのでしょうか??

Credit: Getty Images/Underwood Archives

(Wikipedia引用)

 

  • プレリーハウスの確立

ライトはアメリカ中西部のウィスコンシン州で生まれました。
大学を中退後にシカゴへ移り住み、建築家ルイス・サリヴァンの下で住宅の設計を行い、そこで副業のアルバイトがばれてそれを咎めたサリヴァンと折り合いがつかず7年務めたサリヴァンの事務所を退職することになります。

ライトがちょうど30歳の時、1893年に独立して事務所を構えます。

ただライトはサリヴァンのことを最愛の師匠と敬愛し、生涯影響を受けたことを公言しています。

当時のアメリカではヨーロッパの模倣をした建物が主流でしたが、ライトの師であるサリヴァンはアメリカ独自の建築を目指していました。
ライトもその影響を受け、アメリカの風土に合う「プレイリースタイル」の家を提唱しました。

プレイリースタイル」はアメリカ中西部の平原地帯と調和するデザインで、地下室や屋根裏部屋を無くして屋根を低く抑え、連続する窓で水平線を強調したり、部屋を細かく区切らないなどの特徴があります。

ロビー邸(1906年)【https://www.linea.co.jp/info/detail/iid/425 参照】

  • タリアセンの建設

住宅設計で評価を得たライトですが、妻子がありながら施主の妻と不倫関係になり、ヨーロッパに駆け落ちするという事件を起こします。
そのきっかけになった設計が1904年に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・チェニーとの不倫関係でした。

当時、ライトは1889年に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子供をもうけていました。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出したが、彼女は応じませんでした。1909年、42歳であったライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行するのです。

このスキャンダルで名声は地に落ち、設計の依頼も激減してしまいました。

 

2年後に帰国したライトは、故郷ウィスコンシン州の片田舎に、母親の家と自邸、弟子たちとともに働く設計工房や宿舎を建設しました。これらの住居や工房は「タリアセン」と呼ばれています。
後に冬の寒さを避けるため、温暖なアリゾナに冬用のタリアセンを建設し、季節によって移動するようになりました。
現在でもライトの建築を学ぶ学生たちがタリアセンで共同生活を送っています。

タリアセン ウエスト フランクロイドライト 冬の別邸&建築スタジオ アリゾナ・スコッツデール Taliesin West - Petite New  York

【FRANK LLOYD WRIGHT3D LABORATORY参照】

https://franklloydwright.org/3dlab/

↑タリアセンの3Dバーチャルが見れます。画像をクリックすると見れます

 

  • 日本に帝国ホテル建設 

少しずつ設計の依頼が増えてきたライトですが、使用人が家族や弟子を惨殺するという不幸な事件が起こります。
タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのです。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で死亡し、動機は不明のままです。当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となってしまったのです。

そのような中で依頼が来たのが、日本の帝国ホテル新館の設計です。

ライトはマヤ文明の影響を受けた時期があり、帝国ホテルの装飾にもマヤ文明を連想させるデザインが残されています。

来日した際に浮世絵の虜になったライトは、浮世絵の熱心な収集家としても知られるようになりました。
ライトのデザインには、日本の影響を受けたものが少なくないと言われ、建物の屋根や細部に日本的なモチーフが使われているほか、折り紙にヒントを得た「オリガミチェア」という椅子もデザインしています。

1913年から度々来日して設計を進めましたが、1923年の完成を見届けることはありませんでした。

またここでも、膨大な設計費用の膨らみと工期の遅れにより施主との衝突により、離日を余儀なくされてしまうのです。

博物館明治村・帝国ホテル中央玄関

旧帝国ホテル(明治村移築)【スマイルログ参照】

 

  • ユーソニアンハウスの確立

1930年代後半には「プレイリースタイル」をさらに進化させた「ユーソニアンハウス」を考案しました。

新しい建設方式によって造られた手ごろな価格のコンパクトな家で、アメリカの中流家庭に広まり、全米に多くのユーソニアンハウスが建てられました。
ユーソニアンハウスは、三角形、六角形、五角形などを設計のモチーフとしているのが特徴です。
中にはベッドまで六角形で作ってしまった例もあり、ベッドカバーを特注しなくてはならなかったそうです。

ライトはしばしば予算をオーバーし、工期を遅らせて施主を困らせるなど、自分の道を曲げなかったといいます。
そんなライトですが、建築の世界に残した業績はとても大きく、「設計の原点」とも言えるような住宅を多数設計し、今でも世界中の建築家に影響を与えています。

ローゼンバウム ハウス

ローゼンバウム邸(1938)【Wikipedia参照】

  • 落水荘の建設

ライトが1935年に設計し、1936〜1939年に建設されたペンシルベニア州の滝の家「落水荘(Fallingwater)」。ピッツバーグのデパート経営者、エドガー・カウフマンの週末の家として設計されたものです。落水荘は、ライトが探究しつづけた「オーガニック建築」の最高傑作であり、2019年に世界遺産に登録された「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」の一つです。落水荘の1階リビングには飛雲閣と同様に、直接水辺へと降りて行くことができる階段が設けられています。

ライトの最高傑作と知られる落水荘ですが、日本の伝統建築からインスピレーションを受けたと思われます。

京都市にある西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山で、正式名称を「龍谷山本願寺」といいます。1591年に豊臣秀吉の寄進により、大坂天満から現在の京都市堀川六条に移転しました。西本願寺は、1994年に世界遺産に登録された「古都京都の文化財」の一つであり、飛雲閣は金閣、銀閣と並んで「京の三閣」と呼ばれる国宝建造物です。

西本願寺の飛雲閣は池に面して建てられ、池に突き出した1階部分に「舟入の間」があります。訪れる者は、船で1階下の寄り付きに降り立ち、階段を昇って本玄関となる「舟入の間」に入ります。飛雲閣は、玄関の中まで池が入り込んでいる構造で、ほかに正式な入り口はありません。

飛雲閣は、境内の滴翠園の池に建つ三層の柿葺(こけらぶき)の建築です。二層、三層と建物が小さくなり、位置が東に移動する左右非対称のデザインで、見る位置によって変化する外観が特徴です。全体的に柱が細く障子の多いことから、空に浮かぶ雲のようということで、飛雲閣と名付けられたとのことです。

 

落水荘の1階リビングには飛雲閣と同様に、直接水辺へと降りて行くことができる階段が設けられています。

落水荘の屋上を含めたすべてのフロアには、大胆なカンチレバーで広いテラスが設けられ、滝が眺められるデザインになっています。テラスと屋内フロアは、段差のないフラットな造りとなっており、テラスがリビングの延長として使用されることを想定しています。

ライトの日本文化と建築から受けた影響は、落水荘の外部空間と内部空間の相互の浸透性、そして人と自然の調和に見られます。室内空間に広がる滝の音は、松尾芭蕉の侘び寂びの美意識を彷彿とさせます。

落水荘(1936年)【Wikipedia参照】

 

住宅を中心にご紹介しましたが、ライトの名建築はほかにもユニティテンプル、グッケンハイム美術館など、訪れたい建物は沢山あります。

 

ライトの人生は、実に波乱に富んだものでした。不倫、離婚、駆け落ち、逃避行といった女性スキャンダルに加え、幾度もの破産や火事、殺人事件、投獄、社会的追放などのさまざまな不運に生涯見舞われ続けました。

あまりに破天荒なその人生は、ひとりの人間が負うには余りあるものでした。しかもライトは、これら数々の逆境を都度チャンスに変えて不死鳥のごとく復活し、名作と呼ばれる決定的な作品を生み出していきます。今日、世界一有名な住宅と称される「落水荘」(1936年)や多くの建築家を育てた「タリアセン」での教育活動、日本での知名度を決定的にした「帝国ホテル」(1923年)も、こうした逆境をきっかけにして生み出されたものです。

 

フランク・ロイド・ライトが日本に1913年ごろから来日して、帝国ホテルを設計していた頃、帝国ホテル設計の助手をしていた遠藤新の紹介で施主とライトを引き合わせて建てられたのが、今回訪れた 自由学園明日館 です。

Jiyu Gakuen.jpg

自由学園明日館(1921年) 

 

この建物のご紹介は次回のブログでご紹介します。

まだまだライトの人生について話したい事がありますがこの辺で。

ライトのことを大好きな方も、最近知った方も、皆さんが建築を好きになりますように

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